本陣平野屋 総合トップページ English Page 本陣平野屋 英語ページへ
交通のご案内
本陣平野屋 花兆庵 飛騨高山 本陣平野屋 飛騨生まれ、飛騨育ち 女将からの便り
飛騨高山本陣平野屋 ブログ「飛騨高山から」

 平成10年春 ―

春先に思いを綴って  お知らせ  素敵な季節  3度目のチャレンジ

春先に思いを綴って
 本陣平野屋本館を建て直し、花兆庵としてからはや5回目の春になりました。私も子育て半分の生活から、本格的に女将として働きだし、小さい時から身近にあった「もてなす」という心を、形に表わしたいと仕事をして参りました。私はこの仕事が大好きで、この仕事だからこそ私が活かされる、そう思っています。
  私共の家は、祖母の母の代より飲食業を営んで参りました。「煮売り屋」と呼ばれたその店は、飛騨一円の人々が白い飯だけを弁当箱に詰めて、高山に買い出しに来たり農産物等を売りに来る時、「めし」を食べに入る所でした。ある人は、その店で炊かれた焼き豆腐の煮付けやうぐい(川魚)の甘露煮などをおかずに弁当を食べある人はコップ酒を飲み、帰りまでのわずかな時間を過ごす、近在の人々の憩いの場所であったと聞いています。それを切り盛りしていたのが祖母でした。高山へ行商に来た祖父は、めしを食べに来て祖母にひとめぼれし当時珍しく大恋愛の末、祖父が婿入りし結婚、しばらくして祖父はその隣で洋食屋を始めました。今から60年程前のことです。洋館造りのモダンな「アリス食堂」は、オムライス・カレーライス・かつ丼・ハヤシライス・トンカツ・フルーツポンチとメニューに横文字が並び、白いカバーを掛けた椅子にすわって食べるレストランでした。この小さな街にハイカラな店ができたことはきっと人々の話題になったに違いなく、1年に何回かアリスで食事をするのを楽しみにする人達がたくさんいたのです。その後、座敷をいくつか作って料理屋としてもたくさんのお客様をお迎えするようになってから、母が嫁いできたそうです。長女として生まれた私は、ほとんど店の中で育ちました。ウエートレスの制服を来ている3歳位の私の写真が有りますが、私は店の中にいるのが大好きでした。子供の頃を思い出すとき、焼豆腐の匂いや食堂に飾ってあったガラスのレリーフと共に、お客様の顔やお店の人たちの顔がでてきます。私は、たくさんの人達に可愛がってもらって育ったのです。活気があってにぎやかな店の中の様子、お客様に対する祖母や母の気配り等を肌身で感じてきたことは、今の私にとって大きな財産になっています。
  こうして女将として働くようになって、毎日お客様を迎えたり、もてなしを実践したりする時、自然体で楽しみながらやっている自分に気がつき、育った環境のおかげと感謝しています。
  先日もお部屋のしつらえを見ながら、ふとその日空いている客室の座椅子に座ってみました。普段は、立ったままお部屋見をしますが、時々座ってみると、見えないものが見えてきます。座蒲団の座り心地、茶びつの中、ご案内帳の中身、お客様の視線で見て、行き届いていない所はどこかを探します。新しいアイデアが浮かんだり、改善点が見つかったりします。そんな気がついたことの数々を現実の形に表わして、お客様が旅のひと夜を快適に過ごしてくださるために、あれやこれや考える時間が、私の大事な仕事であり楽しみでもあります。大好きな仕事に就いて、活き活きと働けることに感謝し、前向きに向っていく心を持ち続ける様に努力したいと思います。お客様に育てていただいていることに感謝しながら……。

お知らせ

 いよいよ今年春、本陣平野屋別館は、改装オープンいたします。振り返ると、別館が新築オープンした時、私は20歳を過ぎたばかりで、開店披露宴には、振袖姿で父や母と共にお客様をお迎えいたしました。(指を折って私の年と勘定している人はいませんか?)あれから、何回か改装をしてきましたが、今回は最も大きい改装で、お部屋の内装、お部屋の水まわり等、和風のイメージはこわさないように、より快適に清潔に、明るい雰囲気に遊び心も加えて、改装を計画いたしました。もちろんおもてなしは今まで以上に心をこめてお客様をお迎えし、気どらない暖かな宿にしたいと願っています。
  平成10年4月吉日・本陣平野屋別館は、社員皆の夢をのせて心新たに、胸をはって漕ぎ出します。皆様に可愛がっていただけますようどうぞよろしくお願いいたします。

上へ

素敵な季節

 まわりの空気が少しづつ暖かくなってきて、日も長くなってきました。素敵な 季節がきそうな予感がして、まるで上昇気流にのっているような春です。皆様に も美しい飛騨の春をご覧いただけますように… ありがとうございました。

 女将  有巣 栄里子
上へ

3度目のチャレンジ

 取締役総支配人  千島 途規

 昭和63年1月の末頃、当時の私共の社長(現会長)から
「今度、本陣平野屋の方で働いてもらうことにしたから」
の一言で、忘れもしない同年2月17日より本陣平野屋へ出勤することになりました。しかも副支配人として。チェーン店の中でレストラン関係の仕事は、和・洋・中・レストランから職員食堂まで経験し、多少は理解したつもりでいましたが、旅館という仕事は全く縁が無く、また本陣平野屋はサービス業で最も難しいと言われる宿泊産業、しかもグループの中で最大の従業員を抱える会社です。
「とても自信がありません」
と一度は、お断りをしました。その時の社長との会話は「お前子供は何人有るのか?」「3人ですが……」「作り方はおふくろにでも教えてもらったか?」「…………」「仕事も同じだ」それで、全てが決定し、私の人生の2回目のチャレンジになりました。
  出社1日目は、想像した通り、何が何だかさっぱりわからないまま終わりました。夕方、当時の支配人に呼ばれ、
「明日から7時に来て下さい、お掃除さんと一緒に布団上げ・部屋の掃除・セッティング等やっていただきます。」
と通告されました。社員見習い兼副支配人がスタートした訳でありました。その後、売店部見習い、パントリー見習い、フロント研修と続きました。目の前で電話が鳴っても、恐くて手が出せず、予約主任から
「副支配人さん、電話を取らないと取れなくなりますよ」 と言われたのもその頃でした。
  ともすればめげそうになり、劣等感に襲われる私の支えになったのが私が19才の時の1回目のチャレンジでした。
  私は、飛騨の中でも更に雪深い富山に近い山中で、母子家庭で育ちました。母を助けるため、中学を卒業と同時にアリス食堂(当時の高山を代表するレストラン、我々グループのルーツ)に、調理見習いとして入りました。坊主頭で母に連れられて行った先で、面接したのも現会長でした。
  19才になったある日に、社長に呼ばれました。
「中古の家だが、安くて良いものが出たが、お前いるか?但し俺の判が要るから、すぐには店を辞められなくなるよ。一晩考えておふくろとも相談してこい。」
自分の家も無く、母子家庭で育った私にとって当時の最大の憧れは自分の家でした。母と一緒に住めると思うと、胸のふるえる思いでした。「お願いします。」と頭をさげました。その直後また呼ばれました。
「今度、急にある病院の院内食堂をやることになった。ついては、お前に担当してもらおうと思う。お前は自分に勝負をした。だから俺もお前に賭けてみる。」と。
  19才で小さいながらも我が家を手にいれ、更に小さいながらも店長ということで、4人のパートさんを使う責任を持つことになりました。
  しかし、いかに社長がかってくれても、張り切っても世間的には、19才では子供ですから、院長始め、医者の先生方、事務長さんや看護婦さん誰も一人前扱いはしてくれません。一番偉そうな(威張っている)外科部長の先生等「おはようございます。」と挨拶しても無言でジロッと見るだけでした。自分の為にも社長の為にも何とか突破口をと焦っている内に、一番偉い外科部長の先生は、手術の日には夕食は勿論、時には昼食も抜きで手術に取り組み、終わった時には疲労困憊、ご馳走でなくても良いから暖かいご飯が欲しいと言うことがわかりました。以来、私は手術日には、夜何時になろうと待っていて、その終了時間に合わせ、暖かいご飯を炊き、出来立ての味噌汁に美味しい漬物と好きなおかず一品を準備する事にしました。そうした初めての日、手術を終えた先生がいつものようにむっつりとテーブルに着き、一口食べるや、ジーと私の顔を見てくれました。少しは私の気持ちも通じた様でうれしくなりました。その後、先生の方から「おはよう」と声をかけていただけるようになり、職員の皆さんからも何かと力を貸していただけるようになりました。
  あの時から見たら、もう15年、少しは進歩しているはずだと自分を励まし、副支配人から支配人となっていつの間にか10年経ってしまいまいた。
  昨年末、長野県との境、安房トンネルが開通しました。2年後には東海北陸自動車道が高山に接続してきます。観光業界としては、大いに期待している様ですが実はスケールアップをしての厳しい競争が予想されております。
  そうした観点から、私共でも別館の改修に入り、ゴールデンウィーク前には完成の予定です。私にとっても3回目のチャレンジが始まるようです。どうぞお客様方の暖かい御叱正、御声援を心からお願いします。
上へ

平成10年春

飛騨高山の宿 本陣 平野屋 花兆庵 〒506-0011 岐阜県高山市本町1丁目34番 TEL.0577-34-1234
(c) Hiranoya Corporation.All right reserved.
本陣平野屋別館