我が家には、1歳10ヵ月ずつ違う子どもがいる。今年、中学3年・1年・小学5年生になった。 3人の子を続けて生んで育てる頃、私の髪は短く刈り上げショート、顔はすっぴん、洋服はいつ汚してもいいようにジーパンとトレーナーしか着なかった。時々、化粧をすると顔が重たい感じすらするほどだった。 自転車には、幼児用の椅子を2つ取り付けていた。お医者様には叱られるかもしれないが、3人目がお腹にいたときには、前の椅子に2番目の子、後の椅子に1番目の子を乗せ、自分も乗って買い物に行った。・・・・・・「有巣さんちの自転車は4人乗りだね」と近所の人にいわれて、初めて自分の姿を思い浮かべ、「本当だ!!」と妙に感心したこともあった。 人から見た自分なんて気にすることもなく、色気とは無縁だったけど、元気いっぱいで、子供と同じ視点でモノを見るのは、結構おもしろかった。そんな自分も好きだったし、子育ても楽しかった。NHKの「おかあさんといっしょ」にでてくる歌は、全て歌えた。 毎日がミキサーで掻き回したように忙しかった。バタバタとしているだけで1日が過ぎていった。それは、ずっとずっと前の事のような気もするし、ついこの間の事のような気もする。 時は過ぎて、今私には、母親としての時間より、旅館のおかみとしての時間が長い。そんなこの頃、お客様が連れていらっしゃる小さなお子様に、見とれてしまうことが多い。玄関で、小さな手で一生懸命靴を履こうとする姿、2・3歩歩いてしりもちをつく姿、子供ってこんなに可愛かったんだと、新鮮な気持ちで見ている自分に、正直、驚いている。自分の子供が小さかった頃にも、飽きる程見てきた風景のはずなのに、なんでこんなに感動するんだろう。なんでこんなに、愛しく、ほほえましく思えるのだろう。 ああ、そうか!! 自分の子供はもちろん可愛いけど、生活の中では、やらなきゃいけないことも、たくさんあって、余裕のない毎日だった。 子供とのやりとりの中では、目も吊り上がり、「早く、早く」が口癖で、大声を張り上げるのも毎度のことだった。(今もそうだけど)・・・・・・子供の仕種をうっとりと眺めることはなかったような気がする。思いだすと、いつも私は自分の生活のペース配分に子供を巻き込んで来たような気がしてくる。子育ては楽しかったけど、自分勝手な楽しさだったのだろうか。考えかけるときりがない。思えば結構乱暴な子育てだったかなぁと反省しきりである。 そんな日は、自己嫌悪になりながら家に帰る。 玄関の階段を昇る私の足音に、末っ子が相変わらず甘えて、「おかえりー」と寄ってくる。受験勉強が始まったばかりの長男と、中学生活に慣れてきた長女の顔を見て、それぞれに言葉を交わす。― いつもと変わらない顔である。 そんな家の空気を吸うと、さっきまで、子育てを反省していた自分は、どこへやら。張りつめていた心がたらーんと伸びていく。1日の疲れが消えていく気がする。 まぁいいじゃない、立派な母親ではないけれど、子供達は元気だし優しいし、うん、いいよね。子供は、昔も今も全速力で動き回る親を認めてくれているのかもしれない。 そのうち、また、昔みたいにみんなで城山に散歩にいこう。おにぎり持っていこう。子供が小さいとき、よくでかけたみたいに。
飛騨びと紹介 <「まさごそば」のおじいちゃん> おじいちゃんは、富山県八尾の出身で縁あって高山に住み、昭和13年から屋台のラーメン屋さんを始めました。戦後になって鍛治橋のたもとに、屋台を据え、数々の武勇伝と共に、多くの常連客を持つ、名物屋台となりました。現在は、平野屋から歩いて2分の有楽町に店を構え、2代目が継いでみえます。観光シーズンには、行列ができてしまうほど、高山の有名店のひとつです。 さて、高山では、ラーメンのことを「中華そば」といいます。醤油味、鰹だし、細ちぢれ麺、チャーシューにしなちくと飛騨ねぎです。私たちが「そばを食いに行く。」というと、それは、小さい頃から口にしている「中華そば」のことなのです。 ちなみに、「まさご」のメニューは、そばの大盛りと並だけです。いかに、高山の人が中華そばを好きか、よくわかります。そんな、中華そばの草分けが、まさごのおじいちゃんなのです。 おじいちゃんは、毎朝、朝市方面に自転車で散歩に行きます。優しい笑顔とメガネとベレー帽がトレードマークです。帰りには、平野屋の前を通って喫茶店に行くので、お客様を見送る私に手を振ってくれます。私の大切なボーイフレンドです。会ったら、ぜひ声をかけてみて下さい。
私の超えてきた道 <中村久子女子の生涯〜中村久子女史顕彰会> 生まれて・・・・・・ 久子女子は1897年(明治30年)1月25日、岐阜県大野郡高山町(現高山市)に畳職人の釜鳴栄太郎・あやの長女として出生。2歳の時左足の甲に凍傷をおこし、それがもとで突発性脱疽(だっそ)になり3歳の時両手両足を切断。闘病生活が始まる。7歳の時父を亡くし、10歳の時弟と生別。母の再婚等苦労の生活が続いたが、祖母丸野ゆきのやさしい指導と母あやの厳しいしつけの中で努力と独学を重ねた。結果、無手足の身で文字を書き、縫い物、編み物をこなすことを独特の方法で修得した。 生きて・・・・・・ 1916年(大正5年)11月16日、女史20歳の時高山を離れ、独り立ちの生活を始める。無手足の身に裁縫・編み物・刺繍・口での糸結び・短冊書きを芸として“だるま娘”の看板で興行界に入る。その後、弟や母との死別、また結婚と出産。夫との死別、再婚、仕事の苦労と幾多の苦難の中に生き抜く。その間、書道家の沖六鳳氏に会い書の指導を受け、また座古愛子女史に出遭って生きる方向を見つけて努力精進した。1934年(昭和9年)哲学者の伊藤証信・朝子夫婦に見い出され、興行界から身を引く動機をつかむ。 生かされて・・・・・・ 1937年(昭和12年)4月17日、女史41歳の時東京日比谷公会堂でヘレンケラー女史と出遭う。その時女子の口で作った日本人形を贈った。ケラー女史は“私より不幸な、そして偉大な人”と久子女子に言葉をおくった。翌42歳の時福永鷲邦氏に出遭い、「歎異抄」にふれる。歎異抄が縁となり、念仏者として生きる方向を確立する。1942年(昭和17年)46歳の時、興行界から完全に身を引き、求道生活を深める。50歳頃より執筆活動、講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の健常者・身障者に大きな生きる力と光を与えた。1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足、初代会長に就任、65歳の時厚生大臣賞を受賞した。69歳の時は母を顕彰し、また障害者の生きる糧として、国分寺境内に悲母観音像を建立した。1968年(昭和43年)3月19日、高山市天満町の自宅において、逝去する。年72歳。