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飛騨高山本陣平野屋 ブログ「飛騨高山から」

 平成12年冬 ―

飛騨の宴会  私の尊敬する先生  二十歳の主張

飛騨の宴会

 日本の昔からの風習は、都会ではあまり見られなくなり、地方へ行くと、郷土色豊かに継承されていることがたくさんあるようです。
 高山にも、そういった古くからのしきたりがたくさんあります。そういう中で、高山へ転勤になった方が驚かれることのひとつに、飛騨の宴会があります。
 まず、お酒を飲む機会が多いこと。お酒に強い人が多いこと。そして宴会時間が長いこと。
 飛騨の宴会は、畳席でお膳、純和風スタイルです。膝を交えて、酒を注ぎあい飲み交わす事が目的です。普通の宴会で、始まりからお開きまでは最短3時間。都会での宴席を予想していると、とんでもないことになってしまいます。

 宴会中の作法も地方によってまちまちだと思うのですが、今回は飛騨の宴会になくてはならぬものをご紹介しようと思います。

『目出度』(めでた)
 飛騨の宴会に欠かせないものとして、「めでた」という、祝い唄があります。

 ・・・それは、唄の様に聞こえるが何を唄っているのか分からない、しかしながら、宴会での貴重な習わしのようで、皆が四角四面にかしこまって、何かひとつの唄を、唱和しているのである。
 一人の人の音頭とりに続いて、会場中での大合唱となったが、譜面も歌詞もないのに、急に皆が歌い出すのは何だろう。何を唄っているのだろう。
 妙に、節回しの長いその唄が終わると、宴席から皆の拍手が起こる。急に会場がざわつき、やおら自席を立ち上がって、酒をつぎに出る者もある。
 あの厳粛だった数分間は、何なのだろうか。会場はもうすでに、にぎやかなただの宴会になっている・・・・・・。

 初めて宴会中の「めでた」の唱和に出会ったときの方の感想は、こんな風でしょうか。

 宴会の始まりは、主賓の挨拶等があって乾杯の後、司会者が「しばし歓談を・・・・・・」というのは、日本中どこでも同じだと思います。
 しかし飛騨の宴会では、乾杯後もお酌に回らず、みんな席に着いたまま、時折隣の人と酒を注ぎ合って料理を食べます。
 少し時間が過ぎて、料理の吸い物が出た頃を見計らって司会者は、「お座つき」の案内をします。これは、宴会の始まりのおめでたい舞いを踊ってもらうことです。(踊り自慢の方、もしくはプロが主に日本舞踊を踊ります。)
 座付が終わるとすぐに目出度の出番です。
 司会者が「めでたのご発声を・・・」と言って、あらかじめ打ち合わせしておいた唄自慢の方を指名します。
 指名された方は、みんなの注目を浴びつつ下座へ行き、時には舞台中央にて、めでたの前唄を唄います。
 前唄に続いて、途中から、宴席の皆で、本唄の唱和が始まるというわけです。音程が低いので男性の声だけが響きます。又、母音を強く伸ばすので息継ぎも大変です。
 この唄の唱和がすんで、やっと会は、無礼講となり、膝を崩すこともできるし、席を立って他の方に酒をつぎに出ても良い事になっています。
 一同唱和のこの唄を、歌えるようになったら、一人前ですね。

 めでたの唱和の間は、私共給仕をする者も、一旦お座敷の外に出て控え、唄い終わりを待つことになっています。

<めでたの由来>
 古くは、天保元年辰10月(1830年)、「斐太遺乗合府」という書物には、目出度謡いとして、書いてあるそうです。目出度謡いは、膝を叩き、手を打って唄ったものであるとのこと。別名、「奏唄」「若松様」とも、呼ばれていたそうです。
 別名の呼び方のとおり、当時は全国的に唄われており、謡いの「松くずし」の後に唄う「めでた」が、一番正式なのだとか・・・・・・。とにかく、昔の流行り唄が定着していき、民謡になったと思われます。
 唄の文句の生みだしの語(生み字)を、極端に伸ばすのが、めでたの特徴です。
 このあたりが、何かにつけ、荘厳さ、厳粛さ、深さ等を求める飛騨びとの気質と合ったのではないでしょうか。
 「めでた」は、長年のうちに、地域毎に、多少節回しが違ってきたものの、飛騨一円で、ずっと唄い継がれてきました。

 余談ですが、「めでたの発声者」についてひと言。
 司会者に指名されて、最初の唄い出しの音頭とりになるには、宴席の皆が認めるだけの唄のうまい、場慣れした、貫禄のある方という暗黙の了解があります。
 指名されると、咳払いなどして、おもむろに下座に移動して、唄われるのもおもしろいです。


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私の尊敬する先生

 飛騨の文化を語る上で、決してはずすことのできないものとして、「茶道 宗和流」があります。
 高山の料亭で、「宗和流本膳」という名も出てきますので、ご存知の方も、多いと思います。
 高山では、現在も宗和流茶道は受け継がれており、十五代目は、森本花文先生でいらっしゃいます。その小柄で、華奢なお姿からは、想像もつかないけれども、飛騨に伝わってきた茶道宗和流十五代として、重責を担っていらっしゃいます。
 新しい世紀を迎える時の「女将便り」には、私のお花の師匠でもありました森本先生に、ぜひ一筆お書きいただきたいと、思ってきました。
 今回それが、実現できて、何よりうれしい21世紀の幕開けの女将便りになりました。

<飛騨に伝わる茶道宗和流の創始者 金森宗和について>
 金森宗和は、飛騨高山城主二代金森可重の嫡男重近として、天正12年に誕生いたしました。祖父長近、父可重は、共に当時世に知られた武家茶人でありましたので、千利休が秀吉の嫌忌に触れて自刀されました際、その長男道安が世をはばかって飛騨に逃れ、金森家に隠棲していた日々、父と共に奥義を学び、その後一派を開きました。

 31歳で、京に上がった宗和は、禁裏、公家に入って多くの知己を得ましたが、中でも後西院天皇、近衛信尋(応山)は、宗和に最も傾倒されました。近衛家に伝わる記録書「槐記」の中に、加藤清正が、宗和の点前中――隙あらば、槍を入れようと狙ったが、気の満々として一毛の隙なく云々――と記されているあたり如何にも武人らしい宗和像が浮かび上がってまいります。
 洛北三千院の庭を作事し、金閣寺の夕佳亭を始め、鎖の間(京都醍醐候別邸)、六窓庵(国立博物)、大徳寺真珠庵の庭玉軒の茶室は宗和の好みと伝えられております。
 池坊専光等多くの芸術家達とも交わった宗和は、野々村仁清を世に出し、自らも宇治の茶木を以って利休像(京都安寧寺安置)を刻み、71歳で世を去りました。天寧寺には、室町様と呼ばれた母君と並んで、その墓があります。

 宗和流茶道は、京都に於ては、次第に消滅いたしましたが、飛騨では、300有余年を継承いたしております。また、加賀前田公の茶道師範として迎えられた宗和の長子七之助氏方による加賀の宗和流は、以後血脈は絶えましたが金沢の地に脈脈と継承されております。

  飛騨に伝わる宗和流十五代  森本 花文

<森本花文先生より私への手紙>
 女将さん等とお呼びすると、ちょっと距離ができてしまいそうで、やはり栄里子さんと呼びます。
 花兆庵のオープンの時、花を活けることを頼まれて伺い、その折、ロビーからトイレに至るまで、迷い子になるほどのいろいろの場所に花入れが置いてあり、2階では、大広間、そして玄関の大きな壺!これは偉いことを引き受けてしまったと思ったのが昨日のことの様です。
 その時の貴女は、山の様にいろいろ準備することがあったのでしょうよ。ホント「阿修羅」のようでしたよ。
 それなのに、オープンして少し落ち着かれると、真夏のさなかでも、貴女は和服を涼しげに着こなして、稽古に来られましたなあ。「よくそんな時間を作れるものだ。」と言いましたら、「私も、息抜きの時間が要る人です。」とおっしゃったような気がいたします。

 さて、50年前は――なんていうと、貴女には、ピンと来ないかもしれませんが、終戦直後は本当に食べ物の少なかった時代でした。
 そして、わけても世渡り下手の私は、京都で活け花の勉強をしながら1週間に1度、茶道も習っていました。(勿論今継承している宗和流ではありません。)
 お茶の先生は、物柔らかな口調ながら、畳の拭き方から、お手洗いの掃除の仕方まで、教えてくださいました。しかしながら、私は、先程も申しましたように、明けても暮れても、ひもじい思いの中で生きておりまして、早く下宿に帰って何でも良いから、口に入れることばかり考えていて、ロクに点前も身につきませんでした。
 そんな私に、先生は、「人前で、点前をすると言うことは、何もかも裸の自分をさらけだすということなのですよ。」とおっしゃいました。
 それはその頃の子供に毛が生えた程度の幼稚な私には、ほとんど理解できない言葉でした。
 しかし、ここまで40年近く、活け花と、茶道をやっていて、稽古に来られる方の作品や点前を見せてもらっていると、身原先生(その先生のお名前です。)に教えていただいたことが、鮮烈に蘇ってくるのです。
 カッコつければつけるほど、心の中は丸見えになります。茶道の場合ですと、「一期一会」と言う言葉がらどんどん遠くなるのだということを、この齢になって・・・、いやこの齢になったからこそ、やっと少し解かりかけてきた気がします。
 また、何かの折に、身原先生は、「ウラを見せ、オモテを見せて散る紅葉」とも、教えてくださいました。
 どうしてそれが、私の頭の中に、50年も残っているのでしょうか。しかも、そこに何の意味が込められているのかも解からずに。
 今年も、裏山の木々が少しづつ紅葉してきました。
 風もないのに、ハラハラと地に落ちていきます。ウラを見せ、オモテを見せて、人の人生のようです。
 どんなにがんばってみても、人は、裏も表も味わって生きて行かなければなりません。ウラになったときに、どうやってその時を乗り越えられるか、心を持っていけるかが問題ですなあ。
 また、茶会でもあれば、どんな小さな会であっても、亭主が客の前に裸をさらす覚悟ができず、客はただ、美辞麗句を並べ立てているだけでは、とても哀しい内容の茶会になってしまいます。
 うらもおもても見せつつ、お互いがお互いを思いやることが、一番大事なことだと思うのです。
 この言葉は、私がいつも社中の方にいう言葉です。
 考えてみますに、栄里子さんのお仕事も同じようなことが言えるではないでしょうか。
 「損して得とれ」と言う諺があります。いつも損ばかりしていては困りますが、相手に対する思いやりをいつも忘れずに・・・・・・。
 この諺を、栄里子さんに、いや今度は女将さんと呼んで、送る言葉にいたします。
 今一度。

  「ウラを見せ、オモテを見せてちるもみじ」

森本花文     

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本陣平野屋版 二十歳の主張

<二十歳になって>

すし兆 橋口浩一     

 僕もいよいよ20歳になりました。早かったような遅かったような不思議な気がしています。
 高校生の頃は早く社会人になりたいと思っていましたので、1日を長く感じていました。
 ところが、いざ社会人になってみると、1年半があっという間でした。学生の時とは違って、あらゆる面で初めてのことばかりだったので、無我夢中の時間が経ちました。
 そして、今までの20年の人生の中で、本当に勉強になったことが多く、一番有意義な時間だったと思います。
 今、すし兆で働いて、一番勉強になるのは、接客です。
 いろいろなお客様を相手に、カウンター越しに話をするのは、まだまだ自分には、できません。始めの頃に比べれば、ほんのちょっとは冗談も言えるようになったのですが、会話には、なっていません。店長や、河渡さんを見ていると、いろいろなことを知っているので、お客様を飽きさせずに会話を弾ませてみえます。僕は、自分の経験不足ばかりでなく、知識不足を痛感しています。
 いつかは、自分もあんなふうにカウンターに一人で立ち、お客様の相手をしながら、しかもうまい寿司が握れる様になりたいと思います。お客様だけでなく、他の皆からも認めてもらえる寿司職人になりたいです。
 これから、もっと辛いことがあるかもしれませんが、負けたくありません。
 自分の将来の夢、「自分の店を出す」を、常に心に置いて、仕事をしたいと思います。
 みなさん、すし兆へ食べに来てください。お待ちしています。

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<本陣平野屋へ入社して>

接客係 丸山美智子     

 私が入社して、もうすぐまる2年になります。
 入社したての頃、毎日教えてもらって、練習して部屋案内。覚えることが多くて、仕事を続けていけるだろうかと思ったこともありました。
 案内がだいたいできるようになって、女将さんにみてもらった時には、とても緊張してしまい、頭の中が真っ白になってしまいました。テストを終えると、ほっとして思わず泣きだしてしまい、女将さんをびっくりさせてしまいました。
 一つ一つ乗り越えながら、私は、今年から、手話を勉強しています。高校時代に、少し勉強していたのですが、卒業したら、忘れてしまいました。
 聴覚障害のお客様がいらしたとき、手話があまりわからないことと、恥かしい気持ちで、とても戸惑ってしまいました。
 これは、いけない。
 聴覚障害の方がいつお越しになるかわからないけど、手話をもっと使えるようになりたいと思いました。そして、手話サークルに入ってみました。
 この頃は、実際に障害者の方と話をすることも増え、やっと少し自信がついてきました。
 先日泊まられた聴覚障害のお客様にも、「もっと手話を勉強してください。貴方は若いから大丈夫。でも毎日使わないと忘れてしまうからね。」と励ましていただきました。お客様に喜んでもらおうと、始めたことで、私自身が励まされているのだなあと思います。
 これからも、毎日毎日を勉強する気持ちを忘れないようにしたいです。

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<入社して>

客室係 畑瀬真佐美     

 私が本陣平野屋に入社して、早くも2年になろうとしています。
 学生時代とは違う一人前の大人として、責任の重さを学んだことも、何度かありました。学生時代には、当たり前の様に思っていたことも、社会人としては通用しないこともありましたし、対人関係で悩んだこともありました。
 簡単に「責任」というけれど、社会では、自分の行なったことが、最初から最後まで、本当に全部、自分一人の肩にかかってくるから大変だと、実感しています。
 でも、一生懸命自分で考えて、何かをやり遂げたときの満足感は、やはり最高です。
 例えば私の仕事、サービス業では、常にお客様のことを一番に考え、たくさん満足して下さるよう、精一杯に接しています。
 どんな風にしてあげたら、喜ばれるのだろうと、その日の自分の受け持ちのお客様に接します。お客様の笑顔を見ている時が、私自身が最高に幸せだと思うときです。
 でも、仕事は楽しいことや、うれしいことばかりではなく、小さな壁にあたることは、日常茶飯事です。気持ちも落ち込んだり、いらいらします。
 そんなとき、簡単にあきらめないこと、逃げないことを常に頭の中に置き、上を上をみて毎日を送ろうと思っています。それはきっと自分自身が成長するための変わり目だと思うから。
 毎日の生活の中で、自己管理をしっかりして、元気に働きたいと思います。
 仕事面も、自分だけが満足するのではなく、いつも相手の立場にたって、考えていけるような人になりたいです。
 責任の重さと一緒に、仕事の楽しみも分かってきてうれしいです。もっともっとがんばりたいです。

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 平成11年度の入社の3人は、個性派ぞろいです。
 その持ち前のほのぼのとした雰囲気と風体から、「ドラえもん」と名付けられた橋口君。はにかみながら、「お疲れ様です。」と、あいさつしてくれる笑顔が印象的です。愛車は、緑色のハイラックスという、トラックみたいな車です。
 聴覚障害の方のために、何かできることはないかと、社内で手話教室をしたときに、先生になってもらった丸山さん。
 手話ってどんなものだろうと、みんなが興味をもてたのは、まるちゃんと呼ばれる貴女のおかげです。
 そんな我が社のバリアフリー担当のまるちゃんは、小柄で、華奢で、童顔なので、「中学生がアルバイトをしては駄目だよ。」と、いつもお客様にからかわれています。
 「この仕事が好き」と、いつも胸をはって答える、我が社の元気一番畑瀬さん。
 頭で考えたサービス業へのあこがれと実際の現場では、たくさんの違いがあって戸惑うことも多かったと思います。けれどその明るさとがんばりで、乗り越えて来ましたね。
 あとはただひとつ、いつになったら「がはは笑い」をやめて、女らしくなるのかなあ。

 3人はこの1年半、本当によくがんばってきました。そして平成13年1月に、揃って成人式を迎えることになりました。
 おめでとう!!!!!

女将より     

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平成12年冬

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