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― 平成13年春 ―
春一番 本陣平野屋花兆庵の庭 飛騨高山の春の行事より
春一番 |
無事に新しい年が明けたことを喜んだのは、昨日のことの様なのに、もう、春はすぐそこに来ているのですね。
今、私は、ひとつの大きな仕事を終えて、ようやく落ち着いて女将便りの原稿を作っています。
やり終えた満足感と、嵐が過ぎ去ったような虚脱感から、ようやく現実を取り戻しつつあります。
それが、どんな仕事であったか、2001年の本陣平野屋の最初の大イベントを、お話ししたいと思います。
ことの初めは、昨年9月の終わり。降って湧いたような話でした。
ご存じの方も多いと思うのですが、淡交社出版の「なごみ」という月刊誌があります。
その本の中で、平成13年は「地方で行なう茶の湯あそび」という特集を組むから、出てみないかというお誘いを受けたのでした。
突然の話に、ましてや「お茶」と名の付く取材の話に、思わず、「できません」と即答してしまいました。
薦めてくださった方は、私が日頃から、飾り付けの事など教えてもらっている方です。料理が好きで、器が好きで、骨董が好きで、椿が好きなその方に、お部屋のしつらえの事など、どれだけ勉強させていただいていることでしょう。ま、言ってみれば、その方は、「和のコーディネーター」でいらっしゃるのです。
すぐに、「できない」と言ってしまった私に、その方は、
「なんでや?おもしろいでぇ。高山の宣伝にもなるし。地方の特色をだして、茶の湯をするんや。やったらいいのに。おもしろいでぇ。」と、いつものように、ニコニコと大阪弁でおっしゃるのです。
「 高山やったら、何を題材にする?やっぱり高山祭かなぁ。おもしろいでぇ。やってみたらいいのに。」
紙面上だと伝わりませんが、この方の話しっぷりは、いつも楽しそうに聞こえてきます。
こんなおもしろいこと、なんでやらないの?と、いう風に聞こえてきます。
聞いているうちに、私の好奇心は、暗示にかかったみたいに、「茶の湯」という大前提を忘れて、
(そうだな。楽しいかもしれない。高山祭りだったら、生まれてこのかた、この地に住んでいる私の得意分野かもしれない。やってみてもいいかな。
後押ししてくれる人がいるんだもの。二度とは、声のかからないことかもしれないし。)
等と、思い始めてしまいました。そして、結局、その方に全面バックアップをお願いして、取材いただくようにお受けしたのでした。
「掲載号は春祭りのある4月号。だから取材日は2月です。詳しい事はまた後で。」
そんな風にお話をして、その方は帰っていかれました。
時は昨年9月。取材は半年先の話です。私は夢の中の約束の様に、簡単に思っていました。
そして、秋のシーズンの忙しさにもみくちゃにされながら、日常に流されていたのでした。
ときどき、思い出しても、まだまだ先の話だからなぁ等と、現実味のないように考えていました。
さて、昨年の暮れになって、その大阪の方から、たくさんの椿が届きました。「館内のあちこちに活けてみなさい」という、いつもながらの気配りの言葉とともに、「準備は進んでいますか?」というひとことがありました。
さあ、大変です。急に目が覚めたように、その日から私の頭の中には、「お茶」「祭り」「取材」という言葉が居座ることになったのです。
春祭りにでる屋台にちなんでの、道具組をすると決めても、私にそんな力量があるわけもありません。
早速、お茶のお稽古をしていただいている師匠に泣きつき、相談に乗ってもらう事になりました。もちろん、取材の日も、お客様として列席いただき、面倒をみていただくこともお願いしました。(なんと恐ろしいことに、亭主役といってお茶を点てるのは、私なのです。)
それからの時間のたつことの早いこと早いこと・・・・・・約ひと月私はひたすら、大阪のその方とお茶の先生のおふたりが考える道具その他を、それぞれに伝達することに徹しました。第一、私は骨董も道具類も持っていないし、茶会に出たこともないのですから、何から手をつけていいのかもわからないのです。
伝書ばとになって、情報のやりとりを聞いているうちに、空恐ろしいことを引き受けてしまったと後悔するやら、茶の湯の奥深さを思い知るやら・・・ほとほと、情けなくなって、
(もう二度とやらないぞ!こんなことを引き受けるなんて、私ってなんて恐いもの知らずなんだ)
と、毎日思うようになってしまいました。
そんな私を励ましてくれたのは、茶懐石の支度と、後座の宴会席の料理を担当する調理長でした。大変だと言いながら、一生懸命春の食材を集め、夢中で献立を作成してくれました。
「こんなものもいるよ。あんなものも用意しておいた方がいいよ。」と、京都で実際にお茶事の料理を作った経験を話してくれます。
料理の事を私が心配しなくても良かったことは、もうそれだけで心強い味方でありました。
いよいよ2月に入ってしまい、私はパニックになった頭で、それでも道具組の一覧表を眺め続け、暇があると茶室でお茶のお稽古をして、気を落ち着けようとしていました。
■□■□ 2月13日 □■□■
大阪より、コーディネーター役の先生が到着。車いっぱいの道具とお花を運んできてくださいました。
早速、お茶の師匠からお借りした道具と組み合わせて、当日の段取りが始まりました。私はもうすっかり『弟子』となって1階のオブジェの花をいれるお手伝いをしたり、足らないものを準備したりすることに・・・。
結局この日は、普段着の洋服のままで館内をうろうろしたため、リピーターの方が不思議そうに私を見ていらっしゃいました。
ほほほ・・・。
■□■□ 2月14日 □■□■
午前・前日の続き。
大広間の床の飾り付け準備。
茶懐石のお席の床の準備。
寄り付きとなる玄関上がり框の準備。
茶室の準備。
お昼・編集部の方が到着
2時・お茶の師匠との顔合わせ
その後、お席の確認
■□■□ 2月15日(いよいよ当日) □■□■
朝9時半に皆、集合。
10時、撮影開始。
まずは、寄り付きにて、その後お茶席にて。11時過ぎには、懐石のお席を撮り、そのまま下へ降りて、料理写真を撮って、お昼休憩とする。
1時半になって、午後の撮影開始。いよいよ、高山祭り独特の祭りのあとふき(打ち上げ席)の宴会風景を撮ることに。
あらかじめこの日の為に頼んでおいた、お茶の師匠の旦那様、ご近所の方、そして、本邦初公開の我が社の社長など5名様のお席です。
師匠の旦那様と私どもの社長には、祭りさながらに裃(かみしも)を着てもらいました。
高山の祭り料理の取り回し鉢をお膳の前に置き、一献傾けたところで、座興の獅子舞に入ってもらうという趣向です。
何枚か写真を撮られているうちに、和やかな雰囲気となり、無事に撮影が終了したのは、2時半頃でした。
そこで、また私は新たに「うーん」とうなってしまいました。
撮影にのぼせている私達の中にいて、撮影が終わった順にお席の道具を片づけていらしたのは、黒子に徹底した大阪のその方だったのです。慣れない私たちを相手に、撮影がこんなに早く済んでしまったのは、やはり事前の打ち合わせと準備、段取りがしっかりとなされていたからでしょう。
これは、日頃「時間がない」「忙しい」とか、ぶつぶつ言っている私に、ガツンとくrものでした。今日もまた、大切なことを教えられ、撮影が終わってなんだかぽーとしている私にその方は、
「ぽーとして、虚脱しとるんやろ?そんなになるんやて。
始まるまでは、やんや、やんやと走り回って、『なんでこんなことをせならんの?』と、思うやろ?
それがや。終わってしまうと、何や、もう終わりかいな。もっとやりたかった。って思うんよ。それで、次何しようか?ってことに、またなるんや。」
と、おっしゃいました。
本当に、その通りなのです。
寝ていても屋台の道具組や、当日の段取りが頭から離れない日が続いたり、自分で賄いきれないことに腹立たしさを感じたりしたことなども、楽しかった思い出になろうとしています。
終わったばかりなのに、それらは懐かしい遠い昔のことのように思えてくるのですから、不思議です。
それぞれにお帰りになる撮影に携わった方を見送りながら、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。
今回も、また私は、私の周りのたくさんの人に助けてもらいながら一つの仕事を終えました。さまざまな形で、私をサポートしてくださる方々のおかげで、とうていできそうになかったことも、こうして終えることができました。
今回の取材では、3日前から高山入りをして、準備をなさった大阪のその方の動作に、私のみならず、社員の皆も勉強したことと思っています。
本陣平野屋に吹いた「春一番」は、こんなふうにして過ぎ去っていったのでした。そしてそれはやはり、私にとってかけがえのない経験となったのでした。
引っ込み思案にならず挑戦してみる勇気と、私の周りの方々への感謝を、忘れないようにしよう。春一番の後のさわやかな空気に、深呼吸しながら、私はまたまたはりきっています。 |
本陣平野屋花兆庵の庭
鰕澤 達夫
花兆庵の庭は、大小10ヵ所の坪庭を持っている。そして、その庭は「新建築」「商店建築」「ストーンテリア」イタリアの「アビターレ」等、多くの雑誌に取り上げられている。
僕が、今までに見てきた宿泊施設の中でも、これほどの多くの庭を持つ、施設は見たことがないというのが本音であるが、イタリアの雑誌に掲載されたのも、ホテルの中にこれだけのバリエーションのある庭があるというのは珍しく興味深かったせいだと想像できる。
では、この庭について雑誌「ストーンテリア」の中に、僕が書いたコンセプトを、まず紹介しておこうと思う。
『本陣平野屋花兆庵は、エントランスロビーの吹き抜けを含め、全体で、10ヵ所の庭を持っている。「庭の旅館」と名付けてもよいほどである。
旅館という性格上、お客様に対する心配り、おもてなしが重視されるため、すべての石たちの中に水盤(石に水を入れる穴)を置いた。その中に、季節の花びら等、浮かべることによって繊細な心づかいを感じてもらえたらと考えたからである。
そして、庭を造形する上でも、最も重要なコンセプトは、石の大きなかたまりを、より細かくすること、すなわち石の一つ一つが持っている主張を単体として、表現するのではなく、小さな石達や平面的な石達を組み合わせることによって、近年見られた様なひとつのかたまりとしての石の存在から、立体造形としての関係をさぐる行為として考えた。
造形されたすべての庭は、植栽がほとんどなく、石のみの表情によって、完結した世界である。
そんな石たちが、ひとつになって生まれる表情の中で、一番大切にしたものは石と石との関係の中で生まれる「すきま」そのものである。
すべての石達がすきまによって、できあがっているといっても過言ではない。
また、1階のロビーの吹き抜けのイメージは、三様の月達の世界であるともいえる。新月であるステンレスの鏡面と水のでる大きなブロンズの月、そして、その水を受ける小さな月、月が月に水を注ぎ合い、そして石に受ける。人は、ぬれたままのブロンズを、マンモスの牙だと思うかもしれない。
そんなふうにイメージの世界がどんどん広がればと考えた。』
この庭が、これほどのクオリティーで仕上がったのは、多くの人の努力と協力があったからだと思う。その時、僕自身も1週間ほど高山に泊まりこんだ。
それは、石工の手仕事に立ち合い石の組み方一つにまで、いちいち口をはさむためである。うるさい庭師と思われただろうと思う。
また、この旅館の建築家である石川氏とも喧嘩をした。
当時(といっても8年前だが)若かった彼と僕が、完璧な仕事をするために争ったのだ。
若いエネルギーや情熱がぶつかるのは、今思えば心地良いものだが、その時は必死だったのだろう。もしかしたら、我々のキャパシティーを超えていたのかもしれない。
いろいろなことがあったが、今までの私の仕事の中で、初めて石とブロンズを使ったこの庭は、あの時の若い力を充分に秘めていると同時に、自然現象が深さを加え、今でも清々しい高山の風に吹かれていることだろう。
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平成12年の夏号にお書きいただいた私どもの設計士 石川雅英氏からのバトンタッチ。
花兆庵のロビーや館内各所の石のオブジェをお造りになった鰕澤達夫氏に、お書きいただきました。
オープン間際になって、やっと石の搬入ができ、あれこれと指示してくださっていたこと、今もその姿を思い浮かべることができます。しかしながら、私はその頃、最も余裕のない時間を過ごしており、鰕澤氏とゆっくり話すことができませんでした。
今回、こうして原稿をいただき、オブジェについてこんな意図もあったのかと新鮮な気持ちで拝読いたしました。
皆様に今一度、課兆庵のたくさんの石達をご覧いただけますように。
女将 有巣 栄里子 |
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前回の冬号を、拡大版で作ったところ、「次回も」という、お声をいただき、本当にうれしゅうございました。
気を良くして、今回もはりきってしまいました。
いつも読んでくださって、ありがとうございます。
女将 有巣 栄里子 |
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平成13年春 |
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