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― 平成7年冬 ―
飛騨の女性の一大行事 冬の思い出 ひさしぶりの古里 女将より
飛騨の女性の一大行事 “漬物つけ” |
11月の声を聞くと、朝市やスーパーの店先に、赤かぶや白菜などの大きな袋が、並びます。主婦の間では、今年は安いとか高いとか、そんな話が飛び交い、各家々でつけものを漬ける段取りが始まります。
かぶらはだいたい10キロ入り、白菜は15キロ入りが1袋となっていて、買ってくるとまず「菜洗い」が有ります。(昔は、家の前の川で)かぶらの泥をタワシで落したり、白菜の外葉をはずしたりして下準備をします。(今は、勝手口の水道の処でする家が多い。)
◆丸漬け◆
かぶを丸ごと漬けます。「つかり」が遅いので、漬けものの中で最後に手をつけるひね漬けです。酸味が強い漬けものですが、最も赤かぶらしい味です。
◆しな漬け◆
"かぶらぼぼ"と呼ぶ赤かぶの実だけを買ってきて、くし形に切ります。夏の間に漬けておいたみょうが、きゅうり、ちょろぎ、こけ等、それぞれの好きなものを混ぜ、塩をふりながらつけていきます。色々な品がはいっているから、品漬けといいます。
品漬けは、とにかく漬けてからが大変で、家の中の一番寒くて風通しの良い所に置き、毎日欠かさず漬けもの桶に手を突っ込んで混ぜないといけません。上下、左右、空気を入れるつもりで混ぜていると、手は、はじかんで(冷たさで、手の感覚がなくなること)案外と辛いものです。ちなみに私は、側にお湯のタライを置いて、手を温めながら混ぜる「なまかもの」です。赤かぶは、かぶの外側の色が水にでて、その色がかぶに戻って、赤くなるのですが、混ぜる手によって真赤な品漬けになる人と、脱色したままの色の抜けた品漬けになる人がいます。家計費をたくさん使って、漬ける漬けものは、主婦にとっては一大事!食卓へのぼるまで、ドキドキものなのです。
◆切り漬け◆
白菜をザク切りにして、かぶの葉もザク切りにして、混ぜて塩につけるだけです。水が出てきたらまめにすくって捨てるのが、コツ。重石をいつまでも乗せていると、「しゅうのい」といって水気がなくなり、紙の様になってしまうので注意!切り漬けは、朴葉みそのわきにおいていっしょに焼いてたべたり、みそ煮【※@】にいれたり、バターとしょうゆで炒めて「漬物ステーキ」にしたり、いよいよ春先になって漬物がまずくなってきたら「煮たくもじ」【※A】という食べ方もでき、応用がきく漬物です。
| @ みそ煮……… |
一人鍋にいなかみそを入れ、おでんのみそほどにお湯でのばす。好みに よってバター・卵・切り漬け等を入れ、ごはんにのせて食べる。他にお かずはいらない! |
| A 煮たくもじ…… |
漬物は、生きていますから、気温が高いと発酵してしまいます。まずく なってきて誰も箸をつけなくなったら「煮たくもじ」にします。切り漬けをなべに入れてたっぷりの水で塩出しをします。2度程水を替えそれからコトコト煮ます。しょうゆで味つけ、味の素と仕上げに油を少し落してできあがり! |
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冬の思い出
高山の冬の朝……凍てつく寒さに何度泣きだしそうになりながら、歩いたことでしょう。私が子供の頃、小学校へ通う道は1キロ、子供の足で15分位でしたが、冬の朝の登校はつらいものでした。街の中の学校でしたし、特に貧しいこともなかったのですが、私が甘えん坊だったのか、今より寒さが厳しかったのか……どうしてだったでしょう。思えば「鼻が凍る寒さ」は今はないような気がします。
朝「いってきまぁす」と家を出ると、4、5メートル歩いただけでもう長靴の中の足先が、しびれてきます。息をすると鼻の穴がピタッとひっついて、閉じてしまいます。手袋をした手で暖めると、すぐ直りますが、またピタッとひっついて、閉じてしまいます。ピタッ、手袋、ピタッ、手袋、の繰り返しです。その内、ほっぺたは、寒さでぴりぴり割れそうになってくるし、足の感覚はなくなるし、辛くてただ黙々と歩きました。頭の中では、なぜか「マッチ売りの少女」を思いだし、いつか大人になったら、冬は足にカイロをつけて歩こう……手袋にもカイロをつけよう……と真剣に考えていました。まさか大人になった時に使い捨てカイロなるものが、できるなんて思ってもみませんでした。カイロを見るたび、冬の朝を思いだします。今のこどもはどんなことを思いながら学校にいくのでしょうか。
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ひさしぶりの古里
私たちは命に限りある事を忘れ、海や山の天恵(めぐみ)が私たちの命を支えていることを忘れがちです。
その海や山の恵みを、懸命な努力により、知っている限りの技術を駆使し、最も美味(おい)しくもっとも素晴らしくお客様に提供すること それが調理師の仕事でありいき甲斐であると思っております。
私は高山生まれ 高山育ちであり、調理師の道を目指し一歩を踏み出したのが昭和32年10月17歳の時であります。
修学旅行に行った京都の印象が強く、京都で修業したいと考えていました。たまたま生家の近所に京都と縁のある方が居られ、その方の紹介の名刺1枚を持って、希望と不安を抱いての旅立ちでした。現在なら高山京都間は約3時間、短くもありませんが苦痛な距離でもありません。しかし昭和32年頃の高山京都間は約7時間、旅の長さがいまでも強く残っています。
紹介されたのが京生舎調理師紹介所と言うところでした。奥の3畳間から入り口の土間まで、たくさんの調理師が仕事を求め、あふれていたのを覚えております。紹介を受け、ある料理屋で仕事に就くことに決まり、京都での一歩が始まることになりましたが、なんといっても最大の苦労は言葉の違いでした。更に、与えられた仕事というのが、親方(今で言う調理長)の送り迎え、履き物の手入れ、割烹着の始末、食事の世話、等々親方の身の回りの世話に明け暮れる毎日でした。一見調理の修業とは何の関係もない毎日のようでありましたが、先輩の板場さんたちに親方が何気なく指示する色々な言葉が、あとで大変な勉強になったものでした。
修業には失敗はつきものと言われますが、そのなかでも思い出すと今でも冷や汗のでることがあります。入店して早々、30人前の婚礼の折詰を配達していく途中紐が外れ、料理を道路に投げ出してしまったときです。作り直すための鯛はなかなか届かないし、お届けの時間は迫る、先輩たちからはぼろくそに叱られる、しかも自分には何もできない、居ても立ってもいられなかったことを昨日のように覚えています。
また最も辛かったことは、大晦日のおせち料理の配達でした。その頃の大晦日の料理屋や各店は店の特色を出すべく腕によりをかけておせち料理を作り大晦日の夕方から元旦の明け方にかけ配達する習わしでした。京都での最初の大晦日、私が受け持たされた配達先の内どうしても1軒(けん)だけ住所の判らないお客様があり、夜中じゅうさがしてようやく探し当てたときは元旦も8時過ぎておりました。たくさんの人々が、着飾って初詣や年始回りに、にぎやかに往来する中、私は汚れた割烹着とチビタ自転車……1年前の大晦日、飛騨高山で両親と暖かい炬燵の中で過ごしたことを思い出していたものでした。その頃は「岐阜県」とか「飛騨高山」という活字が目に入ればただ涙、汽車をみればやみくもに高山へ帰りたかったものでした。
そして色々なことの中で、いつの間にか30年が過ぎ、私のような者にもたくさんの出版社から調理の指導書などの執筆依頼があるようになり、手がけました本も5冊を数えるようになりました。やはりこの道こそ、いやこの道だけが私の道であったのだと、今更ながらに思っております。ただ、出版記念パーティーなどの華やかな席に立つとき、心配をかけ通しだった両親に何もできなかったことだけが心に残ります。
平成5年 故郷高山に本陣平野屋 花兆庵が新しくオープンすることになり、是非という社長よりのお誘いを受け、38年ぶりに古里の地を踏むことになりました。仕事をする気持ちで帰ってきた目で見た飛騨高山は、38年前には全く気がつかなかった食材の眠れる宝庫でした。
まだまだ修業中の私ですが、少しばかりの経験が本陣平野屋 花兆庵へおいで頂くお客様に喜んで頂くことになり、高山の賑わいに役立つことができるなら、わずかばかりでも古里への恩返しができるのかと、精一杯努力してみたいと思っております。
平成7年 冬
本陣平野屋 花兆庵 調理長 武藤 勲 |
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女将より 
この号では、普段顔を出さない調理長 からも皆様へごあいさつをかねて発信 させていただきました。 ご来館ありがとうございます。
本陣平野屋 女将 有巣 栄里子 |
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平成7年冬 |
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