姉との思い出。
次女 加余子
〈生まれたときから2番目〉
いくつかの女将便りで記載されているように、女将は私たち4人姉妹の長女です。そして私は彼女の誕生2年後にこの世にでてきた次女です。
2歳という年齢差はあるようでないものであり、追い抜かせそうで追い抜けないのです。おそらく私は生まれつきの負けず嫌いであって、この長女との2歳差をかなり小さいころから悔しく思っていたように思います。
高校に入るころまで、姉は成長ホルモンが足りないのではないかと心配したほどの低い身長だったので、私は小学校に入るころには姉と同じくらいの身長となり、小学校を卒業するころには私の方がはるかに大きくなっていました。初めて会う方が私を「あなたがお姉さん?」といってくれるのが私はちょっとうれしかったのでした。
まあ話してみれば、すぐにバレルのですが・・・。
〈姉を追い越すための苦闘の日々〉
髪の毛が長くていつも三つ編みしている「えりちゃん」はかわいくて、愛想がよくて、誰にでもかわいがられているように感じられ、小さいころから短髪(母によれば私は自分で髪の毛をはさみで切ってしまうので仕方なくそろえると短髪になってしまったらしい)でボーイッシュな感じの私はその地点で、女の子として、すでに、負けているように思えてました。
私の頭の中は、勉強とか他のことはどうでもよくて、〈どうやっておねえちゃんを追い越すか〉ということで日々いっぱいなのでした。
姉が「ジェットコースターには怖いから乗らない」と言えば、本当は自分も怖いけど「カヨコはこわくないから乗る!」といって冷や汗をかきながら乗ってみたり、いろいろとそれなりに苦労していたのです。今思えば、おかしいのですが、あのころは「栄里子姉ちゃんを越える」ことに命がけでした。
私が日々の生活で「姉に勝つ」ことを中心に物事を考えていることは、次第に両親に察知されてました。
両親はこのままでは姉妹共倒れになると心配し、姉を家業の跡継ぎへと導き、私を学業の道へと導いたのでした。その結果、私は高校から名古屋近郊の進学校に入り下宿生活をして姉と離れて過ごすことになり、絶えず姉と自分を比較して「お姉ちゃんに勝つ」ことに苦心する生活は終わったのでした。
〈姉は小さいころから女将〉
ご存知のように父は飲食業を営んでおり、世間の休日は稼ぎ時なので、どこかに旅行することもありません。
母も店を手伝ったり、途中からは店を任されたりして、両親ともに忙しく、自宅で姉妹4人で過ごすこともしばしばでした。また、我が家は日曜も平日と同じように早起きして朝ごはんを祖父と食べるという日課が決まっていたので、日曜は1日が長いのです。
朝ご飯を食べたあと何もすることがなく、ぶらぶらしていると必ず、姉は「皆で何かして遊ぼう!」と言い出すのでした。私はどちらかといえば、皆で遊ぶよりも一人で好きなようにだらだらと時間を過ごすほうが好きだったので、いつも姉がそのように言うと私は決まって
「え〜、いややぁ、くみの(3女)やゆみえ(4女)と遊んでもつまらんもん」
と答えるのです。そうすると姉は
「あんたも姉ちゃんやろう。妹たちがつまらなさそうにしとるのをみて、一緒に遊んであげようかと思わんのか!」
と、怒るので、私は渋々一緒に遊ぶのでした。
(姉よりも体は大きくても、やはり姉の言うことには従ってしまうのは次女の悲しい性なのです)。
晴れた日は近くの別院に行き、そこに隣接している公園でブランコやシーソーで遊んだり、別院の境内で四つ葉のクローバー探しや、かくれんぼなどをし、雨の日は家の中でおかあさんごっこをするのが常でした。姉に怒られてしぶしぶ一緒に遊んでいると、姉は、何かたわいもないことを取り上げて、「やっぱり加余子ってすごいなあ」とか言って、私を褒めあげるので、単純な私は、それで気分よくなってしまうのでした。
小さいころから気ままでわがままな私や小さい妹たちをこんな風に怒ったり褒めたりしてまとめることは、現在の女将業の原型だったかもしれません。
〈足ゲンカ〉
4人姉妹なので一人部屋を与えてもらえるわけはなく、部屋は2人づつの部屋でした。もちろん私は姉と同じ部屋です。高山の冬はとても寒いのでふとんを2枚並べて敷いて、家庭用の家具調コタツ(普通は居間などに置く4本足のついたコタツ)を足元において寝ていたのですが、2枚の布団のちょうど真ん中に置いたつもりでも、姉の方に多く位置しているとか足が当たったとか些細なことで、寝るときになっても、けんかしていました。就寝時間に、大きい声を出していると母がやってきて、すごく怒られるので、声を出さずにけんかをします。
どうやってやるのかといえば、足で蹴りあうのです。なぜか姉と私はこれを「足ゲンカ」と言っていました。そのうち手もでますが、声は出さない。これはふたりの暗黙のルールだったように思います。それでも、眠ったかどうか確認しにきた母に見つかって怒られることもしばしばでした。
〈お小遣いをもらうための協力体制〉
小学校に入ると父から毎月決められた金額のお小遣いをもらえたのですが、自分でお金の管理をできるようにするのが父の目的だったので、月初めに、お小遣いをもらうためには、前月のお小遣いの使い道を記載したノートと今手元に持っている残金を父に見せないとお小遣いをもらえないというのが我が家のルールでした。
しかし、子供が気まぐれに駄菓子屋などで使ったお金を逐一書いている訳も、覚えている訳もありません。
そこで、大抵は、姉も私もお小遣いをもらいに行く日になってから、手元に残っている現金に合わせて、おこづかい帳に書いていました。ちゃんと逐一書いていれば同じ使い道が記載されていても別にやましくないのに、一度に書くとなると「同じ使い道では変」とか考えてしまいます。なかなか使い道を思いつかないので、姉の残金と私の残金を合わせた額になるようにおこづかい帳に書いて(そうすると残金が多いので使い道は少なくて済む)、姉と私が、別々に父にお小遣いをもらいに行ったりしていました。そういう悪知恵は、大抵私が思いつくのですが、子供の考えることなど、父が察しない訳がありません。
「記載されてる使った日はちがうのに筆跡が同じやな」
と言われたり、最悪の時には、
「計算間違いをしているのに、残金はノートに記載されている額しかないぞ」
と言われたり、冷や汗を、かくこともしばしばでした。
〈最後に〉
前述したように2歳の年の差はあっても、身長が同じくらいで、私がマセていたこともあり、部屋もふたりで一部屋、母の店を手伝うのも姉と一緒、料理をするのも姉と一緒、まるで同い年のように何でも姉と相談して一緒にやってきたように思います。
でも、学年2つ上ですから、やはり、姉が、何でも最初に経験し、自分が失敗したことを私に経験させないようにさりげなく導いてくれていたように思います。
(ちなみに、怒られるときは二人一緒ではなく、「栄里子!!」と姉が呼ばれるのでした。)
姉との思い出は思い出せばキリがなく、喧嘩もたくさんしましたが、振り返れば、ほほえましく、助け合ってきたのだと、思います。
絆深く育ってきた
アリス食堂の娘たちの話
・・・めでたし・めでたし
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